
村山六ヶ村堰は、八ヶ岳の広大な南麓に広がる旧村山北割村、村山西割村、村山東割村、蔵原村、小池村、堤村の六ヶ村の潅概用水、生活用水として開削された堰です。
堰の開削年代は、土地改良区に残されている資料や、その他の資料でも明らかになっていませんが、およそ千年くらい前にさかのぼると言われています。
山梨県土地改良史・高根町誌等の記載には、江戸初期寛文年間(1,661年〜1,672年)に甲斐国目代壬生忠岑(かいのくにもくだい みぶのただみね)によって開削されたとありますが、これは誤りです。壬生忠岑は、平安時代の寛平年間(889年〜897年)〜延喜年間(901年〜922年)の歌人で、『古今和歌集」の選者の一人。甲斐国へ地方官として入甲していますが、官位は目(さかん)という微官でした。この忠岑が、六ヶ村堰の開さくにかかわっていたかは定かではありません。
10世紀から11世紀にかけて、北巨摩の各地に、農耕を中心とする集落が定着していったことを思えば、この広大な地域で、しかも主要河川のないこの台地に、水を引く工事が行われたのは当然と考えられます。
村山六ヶ村堰誌によると、昔は川俣川村山六ヶ村堰と称し、村山北割村、村山西割村、村山東割村、蔵原村、小池村、堤村の六つの村で構成し、天保二卯年(1831年)の水掛高は2,125石6斗余りでした。
明治中期(1890年代)の記録では、灌漑反別350町歩・地価金17万予とあり、水量が豊富な為、安部玉村の小字東井出部落及び長沢組に分水。反別150町歩余、地価金3万円余とも記されています。
往古は、測量術が不完全なため、西沢取入ロより真矢沢以南に至る2.0km余りを掘り渡し入水していましたが、渡らなかった結果、その時の御普請役奉行(ごしんやくぶぎょう)は責任をとって割腹して謝罪したと伝えられています。
今もその堰の形は残っていますが、測量を替えて今日の堰を開削したと言われています。なお、明治30年(1897年)6月8日、時の堰役員中村安市氏によって、割腹した御普請役奉行の徳を讃えた石祀(せきし)が建てられています。(腹切り天神祠=玉山上の東側山腹)。
制札(せいさつ)、禁制を立て礼にしたもの六ヶ村堰を管理するため禁止行為を公示した制札 |
吐竜の滝 昭和4年3月撮影 |
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西沢取水口改修記念 昭和32年10月撮影 |
| 享保4年(1531年) | 東沢の水を組合員総出で、一夜にして西沢に通したとある。 |
| 寛文年間(1661〜1673年) | 潅概面積385町歩。水掛高2,125石。 |
| 寛文年間(1661〜1673年) | 大飢饉の折、山沿いを通る土水路が崩れ、壊滅的な打撃を受ける。 |
| 寛政4年(1792年) | 御普請奉行により堰の大改修が行われる。 |
| 天保2年(1831年) | 水掛高 2,125石6斗余。 |
| 明治20年(1887年) | 潅慨反別350町歩。地価金17万円余。 |
| 昭和初期(1930年代) | 潅概面積504町6反歩。 |
| 昭和9年(1935年)4月10日 | 山本喜市郎が朝日新聞に掲載した六ヶ村堰の抜粋。 「古歴史を持つ六ヶ村堰は、甲斐の目代壬生忠岑の時改修されたと伝えられる(1000年前)。武田信虎時代(1500年代)となって、東沢の水を取り入れる事になる。」 |
| 平成19年(2007年) | 組合員543世帯。水田面積261町歩。畑面積212町歩。 |