
西村彦左衛門肖像
文政6年立梅用水完成図面 三重県多気町の旧勢和村一円は、古くから水に恵まれない地域でした。一級河川・櫛田川が流れているものの、河床が低いため、水を引き入れることができず、必然的に農地のほとんどを畑が占めていました。
江戸時代後期まで、この地の農民たちは、おもに芋や雑穀(アワやヒエ)を糧とする苦しい生活を強いられてきました。
水に恵まれない村の窮状を見かね、壮大な農業用水と新田開発を計画したのが地士である西村彦左衛門です。計画が出されたのは文化5年(1808)のことでした。彦左衛門は、賛同者の庄屋・長谷川周八とともに、村々の説得に奔走し、4か村の庄屋の同意を得て、紀州藩へ連名の嘆願書を差し出しました。
村人は今にも井堰が出来るように思い浮き立ちました。しかし安々とはことは運びません。藩からの音さたが無いまま長い年月が過ぎ、百姓たちの苦情も多くなる中、ともに進んできた庄屋長谷川周八も床につき亡くなり、彦左衛門の私財も底をついてきました。
しかし、待ち望むこと12年、文政3年(1820)2月ついに時は来ました。紀州藩の直営事業として立梅井堰を造ることが決定されたのです。水路の延長は約30km、工事従事者は24万人。困難を極めた工事は、着工から3年、文政6年(1823)に完成します。彦左衛門の計画から数えると、15年越しの悲願でした。
工事に従事した人々を励まし、私財をなげうってまで用水開削に尽力した彦左衛門の業績は、まさに「水と土の先駆者」といえるのではないでしょうか。
明治40年頃の立梅井堰 |
大正10年頃の立梅井堰 |
立梅用水計画図 |
旧立梅用水井堰 |